「人の役に立ってから死にたい。自分を新薬の実験台にしてほしい。」筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者さんが亡くなる三週間ほど前におっしゃったこの言葉がずっとひっかかっていた。人は誰かの役に立つために生まれてきたのだろうか、と。

このことを改めて思い出したのは、受念寺併設の軽費老人ホーム受念館でのことである。「することがない」と持てあましている入居者の方に、どのように過ごしていただくのがよいのか、ということが会議の議題となっていた。そこでは、自分が「役に立っている」と思えることをすることが、生きがいに繫がるのではないか、という方向で話が進んだ。

医療や介護に携わる人も、そう考えて仕事にやりがいを感じている方も多い。私自身も人の役に立てた、と思ったときに嬉しく思う気持ちが起こる。しかしよく考えてみると、人の役に立つ、というのは一体どういうことだろうか。その人にとって「よいこと」をすることだとしたら、その「よいこと」とは一体何だろうか。

平野修『やさしさについて』の中に〈ボランティア志願〉という漫画がある(四二頁)。「ボランティアにまいりました」という男性。施設の人に「庭掃除でもやっていただこうか」と言われ、「僕はそういうことをしにきたのではありません。身障者のおてつだいをしたいのです」といって怒り出す。すると最後のコマで皆さんが庭掃除をしているのである。「よいことをしよう」という心が、何か特別な善を行おうとする自己満足の心なのか、特別なことではなくただ相手の生活に寄り添おうとする心なのかが問われる。前者の心は、「人の役に立つ」ということまで、自分の倦怠を紛らわすための、気ばらしの手段にしてしまうような心だろう。

では、「よいこと」というのは「その人が望むこと」だろうか。例えば、もしその人が、嫌な隣人がいなくなることを望むなら、その人を遠ざけることに手を貸すことがその人にとって「よいこと」であり「役に立つこと」だろう。このような関係は、自分にとって都合のよい間は認めるが、そうでなくなれば受け入れないという、条件付きの関係である。人と人との間に「役に立つ」という繫がる条件がある限り、「役に立たない」といって離れる条件が常についてまわる。私の存在は誰かの手段でしかない。老いや病は常に「役に立たなくなる」という不安と隣り合わせである。

このように、役に立つことを「する側」は倦怠を紛らわす手段とし、「される側」は欲求を満たすための手段とする。そういう人間関係はどこか空しい。

虐待されてきた子どもたちのための児童養護施設に携わっておられた祖父江文宏氏の著書『悲しみに身を添わせて』に、このようにある。

「世の中の役に立てとおそらく皆さんは言われて育ってきました。役に立たなくていいです。人は何かの役に立つために生まれてくるのじゃないのです。あなたの光、あなたを光らせるものによって、あなたが光ることです」

私を、あなたを光らせるものをまっすぐに見つめ、互いにそれを気づかせ合い、喜び合う。そんな関係が願われているのではないか。

(病と生きる(21)『崇信』2017年5月号より)