受念寺に併設する軽費老人ホーム受念館で、浪速中学・高校の吹奏楽部の生徒の皆さんによる慰問演奏会が行われた。会場は受念寺の本堂である。入居者の方々は、歩行困難の方も介助されたり車椅子に乗ったりして、皆本堂に集まる。様々な音色の楽器が奏でるハーモニーに皆聞き入る。最後の曲、唱歌「故郷」では皆一緒になって合唱し、会場の響きが一つになった。
 
音色はそれぞれ違えども、それが合わさり一つのハーモニーとなる。それは各々が自分の音色を聴いているだけは決して起こりえないことであり、周囲の音をよく聞き、自ら心を揺さぶられながらそれに応じて演奏することで成り立つことであろう。それは人間関係においても言えることかもしれない。

では、人間関係において「よく聞く」とはいったいどういうことなのだろうか。私は大学病院にいた頃、何とか病気を治したいという思いをもって臨床や研究に携わってきたという自負から、患者さんの話をよく聞いているつもりになっていた。しかし、ある難病の患者さんに投げかけられた言葉に大きな課題を突きつけられた。それは「あなたにはわからない」という言葉である。「あなたはほんとうに聞いていたのか」「あなたはこの問題にほんとうに向き合っているのか」という厳しい問いかけである。
 
神経疾患の方がリハビリ室で平行棒の中を懸命に歩く姿も、認知症の方が夜間に不穏になり大声を出す姿も、困難な現実に向き合う姿である。今の私が避けて通っている大きな難問に、その方たちが今まさに取り組んでいることに気づかずに、そして苦難の中をも歩ませている意欲に頭が下がらず、「立場が上の自分が、立場が下の人のためにしてあげている」などと思い上がっているのである。
 
自分が同じ状況に立ったときに、ほんとうにその中を生きてゆくことができるのか、その中をどう生きてゆくのか、という問いを横に置いたまま、目の前の状況の解決にだけ関わろうとすることは、果たして問題に誠実に向き合っていることになるのだろうか。隣の楽器の音色をよく聞いて演奏する、といいながら、「人間として生きる」という同じ曲を演奏していなければ、心が揺さぶられることも、音色が響き合うことも、あるはずがないだろう。

医療の現場ではしばしば、それぞれの考え方を尊重する、願うことは人それぞれだからそれを聞くなどといい、それが自由意志を尊重しているかのように語られる。確かに大事な一側面かもしれないが、それは分断に基づく自由であり、そこでは孤独という問題が解決されないのではないか。

人間には、つきつめていけば自らの力ではどうにもならないことが残る。そこに向き合わざるを得ないというところがある。そこに向き合い続ける力は、そのことの苦しみ、悲しみを真に知る人との出会いと、その人と共にいるという実感の中からしか出てこないのではないか。苦悩の人を歩ませて続けてきた歴史に触れたとき、異なる立場であっても同じ苦悩を抱えた人間同士として響き合う世界を生きたいという意欲が、そう願う人々を集わせ、私を歩ませるのではないか。
 
 清風宝樹をふくときは いつつの音声いだしつつ
 宮商和して自然なり 清浄勲を礼すべし (浄土和讃、聖典482頁) 

宮(ド)の音と商(レ)の音*という、一見不協和音にしかなりえない音同士が、同音になって和するのではなく、宮と商のままで和する場所がある。それを成り立たせるはたらきがある。死よりも苦しい生を生きなければならない、という思いから孤独に閉じこもった自分がほんとうに自立して歩める場所が、ここに描かれているようである。

(病と生きる(17)『崇信』2017年1月号より)   

*注
雅楽など日本の古い音楽で使われる音階。「宮、商、角、徴、羽」という五つの音で、西洋音楽に当てはめれば「宮(ド)、商(レ)、角(ミ)、徴(ソ)、羽(ラ)」 となる。