ノート160916先日9月10日(土)、西宮で行われた「このまちで生き、そして、死んでゆくために−日本とタイの実践者から看取りの場作りを考える会」に参加させていただきました(→毎日新聞記事)。

トヨタ財団の支援を受ける、日本とタイの介護実践を学び合うプロジェクトの主催で、そのプロジェクト代表の古山裕基さんとたまたまのご縁で十日ほど前にお目にかかり、参加させていただくこととなりました。

直前でしたので既にプログラムは出来ておりましたが、古山さんのお計らいで、会の後の懇親会で講演をする機会までいただきました。

タイの僧侶、看護学部の教授、医師が来日され、タイの看取りの現場を伝えていただきました。残念ながら途中からの参加でしたが、さまざまな気づき、学びをさせていただいたと思います。


タイの看取りの現場から学ぶこと

タイの仏教がもっている物語世界、思想、精神性まで今回のわずかな時間ではもちろんわかりませんでしたが、「生」と「死」を分けて考えるのではなく、ひとつの「いのち」としてみる眼差しがあることは、仏教的な背景を感じました。老病死の苦を根本的課題として、どこで人はほんとうに生きられるか、ということを課題としているのが仏教であり、死を考えることは生きることを考えることと同じことであると教えられます。

一方、現在の日本では「死」を単に不吉なもの、不幸なものとして遠ざけ、また病院という閉ざされた環境のもとに押し込め、葬儀も家族だけで済ませるなど、ますます「死」が見えにくくなっています。「死」が見えにくいと言うことは「生」が見えにくくなっていることだと思います。

タイでは死の間際になっても、家族や地域がみんなで見守り、そこに自然に僧侶の姿があり、共に死にゆく生を避けることなく見つめてゆく土壌があるようです。それを成り立たせているものとして、それが仏教のものなのか、民族的なものなのかはわかりませんが、何か共有できる物語世界があるようです。そこに個人主義がいきすぎた日本人が失ってしまっている、心を通わせる基盤のようなものがあるのかもしれません。また、「家族」「地域」のあり方を考える上でのヒントがあるのかもしれません。


ほんとうに生きる道はどこにあるか

一方で、家族や地域の働きを「暖かみ」だとか、仏教の働きを「癒やし」だとかという面で見るならば、そこには問題があると思っています。問題があると言うか、私自身がそういうもので果たして納得が出来るか、そこにほんとうに生きる道、死んでいく道が見出されるようなものなのかという疑問があるわけです。何かそれは、私を生き生きと生きられなくしてしまう「苦悩」を曖昧にし、人間が「ほんとうのいのち」を生きる道を見えにくくしてしまうのではないでしょうか。また、それは同じ苦悩を持つものとして、人間と人間が深いところで響き合うような、ほんとうの意味で「共に」生きる、と機会をも逃してしまうことなのではないかと思うのです。
 

生物学的な死と宗教的な死

生と死は分けられないものですし、生物学的な生命だけが「いのち」ではありません。生物学的な死を迎えたとしても、死後もその人の存在が他者を生かすと言うことがあります。そういう意味でも「死」は単に断絶ではありません。

しかし、逆に生物学的に生きていても、そのいのちを生き生きと生きられない、絶望するということがあります。それは「宗教的な死」といえるかもしれません。それはある意味で「絶対的な断絶」です。「なぜこんなに苦しいのに生きなければならないか」「生きる意味はどこにあるのか、もはやこの世界に何の希望もない」と日常の価値観が完全に行き詰まるのです。その”死"を日常の延長線上でいくら考えてみても、「暖かさ」や「癒し」でごまかすしかなく、自分の考えた希望の範囲内で自らを癒やすということになりますが、そんなことは果たして出来るのでしょうか。
 

断絶を超える道

仏教は、その日常の価値観を破り、どんな苦しみの中をも生かす智慧であり、ほんとうの「いのち」の姿を見つめる眼を開かせようとします。「癒やし」の面もあるのかも知れませんが、それでは音楽や芸術とかわらず(音楽や芸術もそれだけではないでしょうが)、本来の仏教のはたらきを見ていないことになりますから非常に勿体ないことです。

家族や地域などの「場」もそうでしょう。「暖かみ」はもちろん大切なことだと思いますが、ではほんとうに「暖かみがある」というのは、どういうことでしょうか。ほんとうの「やさしさ」とはどういうことでしょうか。そういうことをちゃんと確かめることがなければ、ほんとうに人と人が通じ合うということを確かめなければ、せっかく周りに人はたくさんいるのに、「誰も私のことをわかってくれない」と孤独に陥ることだってあるでしょう。

また現実というものは厳しいものです。家族がいても先に亡くなられ、一人残されるかもしれません。些細なことで関係が悪くなるかもしれません。自分の周りの状況、人の心というものは、思いどおりに行かせようと思ってもいかない、思いどおりに行かないものを思いどおりにいかせようとするところに苦の原因があると仏教はいいます。そして誰も一緒には死んでいけません。死を受け入れるのは自分しかありません。そんな苦の原因をあきらかに見ずに、死の姿をあきらかに見なければ、「どんな状況であっても、これで死んでいける」という私自身の「あり方」も確かめられないでしょう。それでは病院であっても、家であっても、人に囲まれていても、喜んで死んでいくことはできない、ということがあるのではないでしょうか。しかし全くの一人ではそれを確かめるのは困難でしょう。そこに「場」(僧伽)ということが求められるのではないでしょうか。


理想とは

理想は大事ですが、その理想がもし「私の欲求」を満たすような、日常の延長で考えられたような理想であれば、理想と現実のギャップに人は苦しみます。「あの人が生きていれば」「もっとこうであれば」と不満ばかりが残り、今現に生きているいのちを喜べなくなります。

しかしその理想が、安らかでありたいと思いながらなぜこんなに苦悩するのかを知りたい、ほんとうのいのちの姿を知りたい、というような、日常の延長を破った視点を得たいという理想であれば、たとえ理想が実現しなくても、理想を求めて生きること自体がいのちを輝かせる、ということがあるのではないでしょうか。どんないのちであっても、これまで気づかなかったいのちの尊厳に気づき、今生かされているいのちを喜べる道がそこに開かれるのではないでしょうか。


安心できる場所とは

また、ほんとうに安心できる場所というのは楽しくても苦しくても、笑っていても泣いていても、そのすべての営みを尊び、無条件に受け止めてくれる場所、なのではないでしょうか。一つの目的に向かって向上してゆくという仏教のあり方は、そうできない自分、行き詰まった自分の救いにならないということがあります。そして向上できるものとできないものを分断することになります。いのちの価値を二分するのです。人は「目的」を求めますが、ほんとうは「目的」ではなく「在処」に迷うということがあるでしょう。「在処」が見つかればそこで生きていける。ほんとうにいのちの尊厳を感じ、いのちのつながりを感じられる場所はどういう場所か。人はそれぞれ個別だけれども、それでいて調和が成り立つ場所はどういう場所か。その課題を引き受けたのが大乗仏教、そして浄土教ということになるでしょう。
 

仏教が目指すこと

したがって、仏教の目指すことは苦や悪のない「きれいな人間」になることではなく「こうしたいのにできない自分」「どうしようもなくきたない自分」「どうにもならない葛藤」をごまかさずにどこまでも確かめることである、と受け止めています。そこにほんとうに崩れないいのちの姿を見るということがあるのではないかと思います。 また 「家族」や「地域」が「暖かみ」が大事だといっても、どのような「暖かみ」が本当にここで生き、ここで死んでいける「在処」となるかを問題としなければならないでしょう。ほんとうの「暖かみ」は、単に笑顔を作ることではなく、「人間だからこそ苦しむこと、悲しむこと」 を共に確かめることができる場所であると受け止めています。そこにほんとうに崩れない安心があるのではないでしょうか。


懇親会での講演

そういうわけで、私は「よりよい看取り」ということを考える上で、見逃されがちな問題を提起するということを課題としました。それは単なる批判ではなく、実際に私自身が見逃してきた問題であり、実際の患者さんとの対話、そしてその対話を仏教に照らすことで初めて気づかされたことを、「ほんとうに「寄り添う」「向き合う」とは どういうことか?」というタイトルでお話しさせていただくということにしました。

「まとめ」の部分だけ掲示しておきます。これらの内容は「まとめ」ですので具体性がないですが、講演では具体的な実例からお話しさせていただきました( 当日のスライドのpdfファイルをご参照ください。)

1.「寄り添う」とは。
□われわれの客観性は、対象の価値を位置づける枠組み(視点)自体を問えない。そこに私の「心」と患者さんの「心」のすれ違いがある。
□「問われる」ということから「共に生きる」歩みが始まる。
 
2.「向き合う」とは。
2.1 絶望をくぐる
□「問題」を問わなければならない。
□われわれのほんとうの問いは、老病死の苦しみの奥にある、生きる意味を失う苦しみをどう越えるかということではないか(根源的な苦しみ)。
□個別の苦しみはどこまでもわかりえない。人間としての苦しみに向き合うことにおいて、ほんとうの意味で「寄りそう」ということが成り立つのではないか。

2.2 苦悩の意味
□プラス・マイナスを求めることの「空しさ」「苦悩」
□縁起の観察 苦しみの原因は渇愛、識(分別)、無明にある
□人生を有見・無見(プラス・マイナス)の二つに分別し、有見を貪り、無見に瞋るところに苦しみ、迷いの原因がある。
□この苦しみは人間にとって根源的な苦しみであり根が深い。したがってそれを無くそうとするところに、どこかに「ごまかし」が入る。
□その苦悩が不幸なのではなく、苦悩を苦悩としか見ることができない世の中を生きなければならない、苦悩の意味を確かめる場所がないことが不幸なのではないか。苦悩のなかに人間のほんとうの姿、実存がある。
□苦悩を無いことにするのではなく、苦悩の意味を共に確かめられる場所(「宿業共感の大地」)、自分の決めたプラスマイナスに関わらない「存在」の尊厳に触れていける場所(浄土、聞法の場所、僧伽)、その存在の尊厳に気づいてほしいという心(本願、仏の心)、触れたいと思う心が起こってくること(欲生心)、それを成り立たせることば(法)を大事にする場所が必要ではないか。


参加者の真摯な取り組み

今回感じたことは、この会を主催された方々や参加された方々がみな、真摯に取り組んでおられるということです。自分の名声や利益ではなく、自分の使命を尽くそうとされているようなその姿勢に大変感銘を受けました。

数々の出会い、そして気づきをいただくような、有り難い機会でした。有意義な会でしたが一度だけでは十分に問題が深まらないということもあります。このような対話が継続できればと思います。