日常の生活では、人の死に立ち会うということはそう多くはない。しかし医療現場ではそれが頻繁に起こる。突然のこともあれば、長く入院されていて徐々に身体が弱っていくこともある。思い返せば様々な方の死があった。
 
先日も当直をしていると、つづけて同じ部屋で二人の方が亡くなられた。二人とも疾患の末期で寝たきりの状態であり、いつ亡くなってもおかしくない状態であった。一人の方は、お子さんやお孫さんたちが大勢集まり皆に見守られながら亡くなられた。死亡確認をし、宣告をしたあとは皆嘆き悲しまれるのであった。二時間ほど遅れてもう一人の方が亡くなられた。身寄りがなく、最近見舞いに来る方も全くおられなかった。亡くなられた瞬間も私と看護師だけで、死亡宣告する家族や友人もいなかった。私は死亡時刻を確認し、看護師と二人で手を合わせた。 
 
このように対照的な状況をみると、どうしても前者は幸せな最期で、後者は孤独な最期だというようにみてしまうかもしれない。また私自身、悲しみというのはその人のいのちを重く受け止めたこと表れではないかというようなことを以前書いたが、そのことを強調すれば、ともすれば悲しむ人がいなければ、何か死が軽くなるかのような了解をしかねない。実際先ほどのお二人のうち、多くの人が悲しまれた前者の死を重くみている私がいた。しかし死に重いも軽いもないだろう。一般化することのできないその人だけのかけがえのない死であるはずである。
 
自宅で誰にも看取られず、人知れず亡くなってゆくことには何とも言えない寂しさがあり、人との繫がりを大事にしようという働きかけも意義あることかもしれない。最近は孤独死などという言葉もよく耳にし、そういう状況を生み出す社会的要因が取り沙汰されたりする。しかし、死の状況は自分の思いどおりにはならないこともまた事実である。家族がいても先に亡くなられ一人残されるかもしれない。様々な事情で疎遠になることもあるだろう。あえて人との繫がりを避けるという道を選ぶ場合もあるだろう。突然の病に助けを呼ぶこともできないかもしれない。そばに人がいても、孤独を感じることもあるだろう。逆に死の瞬間が一人だからと言って人生全体が不幸だと言うことにもならないだろう。
 「人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし。」(『仏説無量寿経』真宗聖典60頁)
 
いくら孤独といわれる状況を改善しようとも、自らの死を引き受けていくのは自分しかいない。この限りある私の身体がその場所となるしかない。しかし一方で、孤独は人を生きられなくする。「ここで生き、ここで死ぬ」という確かな場所がなければ生きていくことも死んでいくこともできない、ということがある。生も死も共に引き受けられる身体を生きる、という課題には生理的な身体の死の瞬間の状況をいくら整えたとしても解決できない問題が残るのである。一人の死に立ち会った者として、その問いを確かめてゆく責任があるのではないか。

(病と生きる(10)『崇信』2016年6月号より)