大学で医学研究をしていると、遺伝子を扱う技術が身につく。そのため遺伝子診断を担当することがあった。遺伝子というのはDNAのらせん構造でできており、DNAは四種の「核酸」と呼ばれる物質から成る。この核酸の配列によってタンパク質の種類が決定されるのだが、ある特定の核酸配列の繰り返しが異常に伸長している場合に、病気が発症することがある。これを特殊な手法で検出する。最後の段階で紫外線を当てると、白い帯状の線が浮かび上がる。もし異常があれば、その線は正常の位置よりほんの数ミリずれたところに現れる。

この一本の白い線が、いつも私に思い出させることがあった。ある若い男性がお母さんとともに私の外来に訪れたときのことである。最近身体が動きにくくなってきたという。お父さんは寝たきりで入院している。そして遺伝子診断の結果、ある疾患の遺伝子異常が見つかったのであった。それを受けてお母さんは私にこう言った。「あんな人と結婚しなければよかった。」

この言葉を聞いたとき、私は今まで診た同じ疾患の方々の顔が浮かび、そのお母さんに対して、悲しみと憤りと蔑みの入り交じった気持ちが起こったことを覚えている。その方々のいのちを踏み躙られたように思ったのであった。

しかし私自身はどうだろうか。遺伝子診断を担当しながら異常が出ないことを願い、病でないことを願っているのではないか。お母さんは子の幸せを願っているからこそ、あの言葉が出た。しかし結婚しなければその子は生まれなかった。その子が今の歳になるまで様々なことがあったであろう。しかし幸せを願い、現実の境涯を受け入れられない苦しみは、初めからその境涯をなかったことにしてしまいたくなる程に深い。生まれたときの喜び、七五三のお祝い、学校への入学、一緒に歌った歌、おいしいねと言い合った食事、あの日みた夕陽、ときには親子げんか、様々に乗り越えてきた困難、心動かされた言葉まで、そのすべてをなかったことにしてしまいたくなる程に、我々の生全体を飲み込んでしまうのである。遺伝子はそんな人間の苦しみには無関心に、そこにただ数ミリずれた白い線として浮かび上がっているだけなのに。幸せを願う心も、不幸を厭う心も、ただここに存在することの尊さを見えなくし、その存在を初めからなかったことにしたくなる程の強い力で我々を無意味の渦に飲み込む心なのではないか。それはそのお母さんだけが持っている心ではない。私自身も同じ心を持っているではないか。

仏教では人間の渇愛について欲愛・有愛・無有愛があるという。そのうち「無有愛」は、このように現に生きる境涯を受け入られないとき、もうそれは初めから無きものであってほしい、この世に生まれなければよかった、という悲しい渇愛なのではないか。このことは縁起の観察において、「生の消滅によって苦が消滅する」ということの意味(「シリーズ—仏教のことば(39)」『崇信』2015年11月号参照)を確かめる上で重要と思われる。もしその意味が「未来の生は尽きた」ということだとすれば、生まれなければよかったと言わざるを得なくなった私の救いになるのだろうか。自我関心でしか生きてこなかった私が死して、人間としてほんとうに生きるべきいのちを生きようとする、新しい生の歩みが始まるのでなかったら、この境涯を生き切ることができるだろうか。
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↑インド・ブッダガヤ、菩提樹と金剛宝座の前。
(『崇信』2016年1月号(第541号)に掲載された記事(病と生きる(5))より転載しました。)