ご案内しておりましたとおり、先日1月16日土曜日、神戸市勤労会館で行われました「阪神・淡路大震災メモリアルフォーラム『悲しみとともに明日を生きる』」にて、講演をさせていただきました。土曜日の夜という時間にもかかわらず、多くの方に、また遠方からもお集まりいただきありがとうございました。
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今回「悲しみとともに・・・」というテーマで開催されたフォーラムでしたが、これはなかなか他にはないものではないかと思います。というのは、世間ではよく、悲しんでばかりいないで笑いましょう、とか、楽しく元気に過ごすための方法、とか、そういうことはよく取り上げるし、私たちもそういうことをつい求めています。

しかしそういうことではなく、「悲しみとともに」つまり、私が悲しむという中身、意味を確かめてゆく機会を大事にする、という趣旨のこのような会は、私が病院で与えられている課題や仏教の学びと響き合うものがあり、お引き受けさせていただきました。

「悲しみとともに」といったとき、「ともに」の言葉の中には、「自分が悲しみと向き合うということはどういうことか?」「他者の悲しみに寄りそうということはどういうことか?」という、二つの課題が含まれているといえます。そのことについて、患者さんの言葉を通してお話しさせていただきました。

ここですべての講演の内容をお伝えすることはできませんが、少しまとめてみます。
(スライドの一部を掲載いたします。→こちら

いずれの課題も、 自分は「問題がわかっている」という思い込みが問題なのではないか。悲しみを避け、もっと笑いましょう、楽しみましょうというのは、何と向き合ったらよいのかという「問題」を確かめずに答えばかり求め、ほんとうに向き合うべき問題に向き合っていないということではないか。そしてそのことが、「寄りそう」ということも妨げているのではないか。自分の関心の中の悲しみであって、同じ問題に向き合えていない。それは自分自身が問われていないからではないか。そのようなことを病棟で実際にあった出来事から考えていきました。「わかった」(分別)は人と人とを分断する。「わからない」というところに立って、どこまでも確かめていこうとする態度が心をつなぐのではないか。
 
人はいのちに自分の価値をつけ、こうなったら人生に意味がある(有見)、こうなったら人生に意味がない(無見)という。どこまでも意味を求める。末期の患者さんが「生きていくのがつらい」とおっしゃったとき、私は死を受け入れずに嘆くことはマイナスであり、死を受け入れることはプラスであると考えて「生まれてきたよかったと言える道を見つけましょう」といった。しかしそのとき非常に悲しい眼をされた。それは、苦しみ、悲しみの外ばかり見ずに、この苦しみ悲しみをちゃんと見てくれ、ほんとうの悲しみをみてくれということをおっしゃりたかったのではないか。死を前にしてもいのちをプラス・マイナスで評価し、プラスを要求し、マイナスを認められない。

私は心の穴がふさげないことを悲しむ。マイナスをプラスにできないことを悲しむ。それは「私」の悲しみである。患者さんは心の穴が空いたままで生きられないことを悲しんでいる。苦悩(マイナス)が苦悩(マイナス)でしかないことを悲しんでいる。それは「存在」の悲しみである。一人の人間としての悲しみではないか。それは生きる意味を失ってはいきていけないという悲しみである。

老病死は生きる意味を失わせる。老病死はマイナスであるという価値観であれば、人はマイナスで死んで行くしかない。しかし、老病死によって崩れない意味、老病死によって失われない、いのちをささえる場所があるのではないか。それは何なのだろうか。そのことを死産の母のお話、病棟で寝たきりになった息子さんとお母さんのお話、そして震災で家族を亡くした方のメッセージから確かめました。

母親は、死産の子との触れあいがないほうがうつになりにくいという。しかし深い悲しみは、その子とのいのちの出会いを示す、たった一つのかけがえのない悲しみではないか。「悲しむ」ということでしか確かめられないことがあるのではないか。問題はそれを確かめる場所があるかどうか、ということではないか。ではそれは何処にあるのか。

寝たきりの息子さんは話せないけれども、「この子に生かされている」というお母さんは「お母さん、生きてね」という声を受け取られていた。震災で妻と子を亡くした方は「いつまでも私たちにとって誇れる夫、父親でいてください。精一杯生きてください」という声を受け取られていた。そういう、老病死では失われないいのちを見よう、いのちの声を聞こうとする方がおられるということ、苦しみや悲しみは消えないけれど、そこに大切な意味がある、その意味を確かめる場所があるということに、生きる勇気が与えられるのではないか。そういう「声なき声」が聞こえる場所は、老病死では失われない。
 
仏教で「浄土」ということばで確かめようとしてきたことは、このことと関わるのではないか。「浄土」というのは仏に出会う場所という。仏というのは、苦しみ悲しみが何も無くなった、何も感じなくなった人をいうのではない。なにか特別な超人になったということではない。苦しみ、悲しみは消えないけれども、老病死では崩れない、苦しみ、悲しみの意味を確かめる場所がたしかにある、ということを身をもって示されている人のことをいうのではないか。

それは特別な人ではない。先に亡くなっていかれ、喜びだけでなく苦しみ悲しみ、プラスもマイナスもすべてが意味ある人生として身をもって示されている先人たちであり、そのような人たちの「声なき声」が聞こえる場所を「浄土」というのではないか。こういう自分のいのちを生かす声というのは、自分の力だけでいきていると思っていたり、自分の関心の中だけで生きている中では聞こえてこない。そのような「浄土」に生まれる、つまり「声なき声」が聞こえる場所が開かれることで、老病死によっても失われない「いのち」を生きる、つまり悲しみを抱える一人一人が、プラス・マイナスの価値をこえて一人の人間として尊重されつつ、同じ悲しみの中を生きるものとして他者とも共に生きるということが成り立つのではないか。

約1時間の話をまとめるのは難しいですね。なかなかうまくまとめられませんが、一応自分の総括もかねて要約を書かせていただきました。

アンケートをまとめたものを拝見いたしましたが、どれも思いのこもったものばかりで、どのような思いで聞いていただいたのかが伝わってくるようでした。私の話は言葉足らずな所も多かったかと思いますが、問題を皆様と共有できたようで、うれしくおもいます。またどちらかでお会いできる日を楽しみにしております。

今回、参加していただいた皆様のおかげでこのような場ができましたこと、そしてこのような場を設けていただいたベネッセスタイルケアの関係者の皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。