前に取り上げたALS(筋萎縮性側索硬化症)について少し詳しくお話ししたい。ALSは全身の運動神経が障害される難病である。根治療法は未だなく、人工呼吸器を使用しなければ診断から数年で亡くなられることが多い。
 
運動神経が障害されると手足が動かなくなる。運動神経は手足だけでなく、口や喉の筋肉も動かすので、会話や食事もできなくなる。呼吸は筋肉が胸郭を広げることで行われるので、呼吸もできなくなる。進行の過程で感覚は障害されず、基本的には記憶や思考も保たれ、運動神経のみが障害される。そのため病気の進行を自覚され、その心境をお聞きする機会も少なくない。ある方は「石になっていくみたいで恐い」と言われた。この言葉の意味をおそらく私は十分にわかっていない。
 
医療は病気を治療するためにあるといえる。しかし病気自体が治療できなければどうするか。そこでQOL(Quality Of Life、生活(人生)の質)という概念が重視される。歩けないより歩ける方がよい、食べられないより食べられる方がよい、と考える。生活上、自由にふるまえる方が“質が良い”と考えるのである。
 
それに則ってALSの医療も行われる。少しでも歩ける自由を求めて理学療法を、食べられる自由を求めて嚥下訓練を行う。確かにリハビリは機能の維持に有効である。しかし病は進行し、いずれできなくなる。私たちは未来に希望があるから生きられる。未来に良くなると信じるからリハビリができる。良くならないのなら、未来にどんな希望を持てばよいのか。「悪くなるとわかっていてリハビリができますか?」そういってリハビリを拒否されるのも無理はない。またある方は「希望のある話をしてください」と言われた。「希望」とは何だろうか。「自由」とは。「未来」とは。移動、食事、会話、呼吸…。ALSは私たちの生活から一切の自由を奪い、未来を奪うのである。
 
いや、本当に「一切」だろうか。私は先の「石になっていくみたいで恐い」という言葉が引っかかっていた。初めは、全身が動かなくなるのだから当然恐いだろうと身体の問題だけを考えていた。しかしV.E.フランクルの『夜と霧』(みすず書房)が疑問を投げかけた。フランクルはユダヤ人という理由でアウシュビッツ強制収容所に送られた精神科医である。奇跡的に生還しその体験を記した。「ドストエフスキーはかつて『私は私の苦悩にふさわしくなくなるということだけを恐れた』と言った」(一六七頁)ALSの患者さんが恐れたのはこういうことだったのではないか。人間ではなく石のようにただ「もの」となり、身も心も全部が苦悩することにもふさわしくなくなることの恐怖。本当の不自由は苦悩を苦悩することができないことにあるのではないか。しかしフランクルはこうも言う。「人が強制収容所の人間から一切をとり得るかも知れないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできない」(一六六頁)ここに、四五寸ばかりだが未来へと連なるほんとうの希望の道があるのではないか。人間が人間として生き、人間として死んでいくにはどうあるべきかと問うて止まない自由境が。

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(『崇信』本年12月号(第540号)に掲載された記事(病と生きる(四))より転載しました。)