本日は大阪天王寺の光圓寺様より法話のご縁をいただき、行ってまりました。 写真を撮ったのが遅く、すっかり暗くなってしまいました。
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小学生からそのおじいさま、おばあさまの世代まで多くの人に聞いていただいたことをうれしく思います。

本日は「孤独」をテーマにお話ししました。「わかった」が人を、いのちを、見えなくする。私が自分の「わかったもの」「診断」しか見ておらず、人を、いのちをみていなかったというエピソードから、いのちの価値を決めつけてみている私たちの事実を確かめる、ということに取り組みました。

病を治したい、人生を良くしたい、という思いの裏側には、いのちの価値を決める、自分はいのちの善し悪しを知っているという思い込みがあります。そのことが、人、苦悩、いのちをそのままに見つめることを拒み、人と人とのつながりを障えるのではないか。自分自身についても「こんな自分には意味がない」もう「わかった」と価値を決めつけ、その「わかった」に行き詰まるのではないか。ほんとうはつながっているいのち、私の中に生きる様々ないのちを見えなくするのではないか。
(このことは コラム 泣いている理由 をもとにお話ししました)

先日ETV特集で『それはホロコーストのリハーサルだった〜障害者虐殺70年目の真実』を見ました。なんとなくは聞いたことがありましたが、改めて見て、何ともいえない、心をえぐり取られるような痛みを覚えました。ナチスが、障害をもったいのちは「生きるに値しない」と決めつけ殺して行く。一日120人、合わせて20万人以上の人が殺されたといいます。いのちの価値を決めつけることの恐ろしさを知らされる一方で、私たちの中に根深くある「よりよくありたい」と求める心。実際、ナチスを市民は支持し、またナチスが中止を指示したあとも、医師が自主的に虐殺をつづけたのです。私たちの中にあたりまえにある心をよくよく確かめないといけません。いのちの善し悪しを決めつける「わかった」の心。このことが今回の話しと繫がったので、今日このこともお話ししました。

能力があって初めて認められる世界では、病気になってその能力がなくなったら見捨てられる、若くて働けるひとが認められる世界では、年がいったら無用のように扱われ見捨てられる。いつ見捨てられるかと不安の中で生き、不安の中で死んでいく。非常に孤独です。

ある寝たきりの患者さんのお母さんのお話しをしました。お母さんが息子さんをみる眼差しは、息子さんのいのちを「こうなったらおわり」とか「こうなった見捨てる」ということはありません。泣いているときも、わらっているときも、咳をしているときも、ヨーグルトを食べているときも、苦しいときも、楽しいときもどんなときも彼の日常に、いのちによりそう。そんな無条件にいのちを見つめる眼を「阿弥陀」の心、「本願」として伝えられ、そのことを感じられる世界を「浄土」として伝えられてきたのではないか。そこではじめて、いのちをまっすぐに見つめてくれる人がいる、孤独ではない、いのちのほんとうの繫がりを感じられるのではないか。そのようなことを確かめました。
(このエピソードは後日、コラム「私の足を運ぶもの」にて掲載いたします)

いろいろなことをお話ししてうまくまとめられせんが、今日はこのぐらいにしたいと思います。
(本日の資料を掲載しておきます。→光圓寺報恩講
(なお護念寺様で使用した資料も11月12日の記事に追加掲載しました。)