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報恩講が終わりました。お足下の悪い中、たくさんの方にご参詣いただき、誠にありがとうございました。

ご法話をお聞きしながら、改めて「生きることを学ぶ」ということがいかに大事なことか、私たちが普段いかにものごとを短絡的に捉えているか、ということを知らされます。私自身、ものごとを捉えるときに「待てなくなっている」ということに気づかされます。GoogleやWikipediaですぐに調べてわかった気になる。Facebookやtwitterで反射的につぶやく。世間では、気に入らないことがあったらすぐに殺害するようなニュースが目立ち、日常の会話でも、医学の学会でも、話題の「テンポ」ばかり早くて、上滑りしている感じがします。「ちょっと落ち着けよ」という声が聞こえません。慌ただしい現代社会の中で、仏教が育んできた「じっくり生きることを考える」という土壌が薄れ、ちょっと一歩立ち止まって考えるという機会すら少なくなっているということは残念なことです。
 
私の通った学校は幸いにも「考える」ことを大事にするところでしたが、特に「生きる」ということ考えることは、普通なかなか学校では教えてくれません。医学部でも「生命」のことは教えても「生きる」ということは教えません。しかし平野先生もおっしゃっていたように「改めて勉強する必要のないほど当たり前のことではない」「じっくり考えていかないといけない」ことだと思います。いつもいつもでないにしても、そんな重々しくないにしても、年に一度の行事や親族の法要、せめて葬儀のときぐらい、身近な人の死を通して生きることを考える機会というものが大事だと思いますが、最近では子供を祖父母の葬儀にも出席させず、学業を優先させてしまう、ということもあるようです。

そんな中で私自身、仏教を学び初めて、そういう「生きること」を考える大事な機会をいろいろといただけること、そしてこのように皆さんと「報恩講」でお話しが聞けるということは大変有り難いことだと思います。

さて、今年のお話しの主題は「信仰」です。「信仰」というと何か特別な感じがしますし、自分は信仰など必要ない、関係ないと思われる方もあるかも知れません。しかし、私たちはこれがあるから生きていけるというものを、しっかりとあるいはささやかにでも持っているから生きられるのではないでしょうか。それが「信仰」の問題です。「生きがい」と言ってもいいかも知れません。そんな私たちが知らず知らずのうちに持っている「信仰」「生きがい」が抱えている問題を、親鸞聖人は「罪福を信じる」という言葉で言い当てています。その「罪福を信じる」ということの抱えている問題が、今回の法話の主題でした。

つい長くなりました。今日はここまでにしておきます。

当日、様々な事情でこられなかった方もあるかと思います。そういう方とも先日のお話しを共有したいと思いますので、お話を聞いて私の受け止めたところをまた書きたいと思います。