石川へ

先週は石川県に行ってきました。かほく市・浄専寺の「生きることを学ぶ会」にお招きいただいたのでした。この日は、昼は金沢市の「崇信学舎」という歴史ある学舎で児玉曉洋先生のご法話を聞き、夜はかほく市の浄専寺でお話をさせていただくという、充実した一日でした。
 
当日の様子は浄専寺ホームページに写真を載せていただいております。(→浄専寺ホームページ。左にもリンクがあります(スマートフォンの方は下))

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↑ 浄専寺から少し歩くと、すぐ日本海が見られる。

浄専寺「生きることを学ぶ会」
 
浄専寺では「生きることを学び、学ぶために生きん」をテーマに「聞法道場」として様々な取り組みをされています。
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「聞法」というのは聞き慣れない言葉かも知れません。「聞法」とは「法に聞く」ということです。「法」とは仏の教えですが、その教えに聞く、たずねるというと、私たちはつい「自分にとって都合の良い答え」を求めます。しかしそれでは教えにたずねているのでなく、結局自分にたずねていることになるでしょう。自分の眼自身は問われません。そうではなくて、そのたずねている自分自身は何を苦しみ、何を悲しみ、何に迷い、何を忘れ、そして一人の人間としてほんとうは何を願っているのか。そういう自分自身のあり方を仏の教えにたずねることを「聞法」といいます。(→受念寺ホームページ参照)

様々な現代社会の問題を通して、私自身のあり方を問い直す。そんな「生きることを学ぶ会」では、いろいろな分野で、様々な問題を自己の課題とし活動されている方を招かれており、毎月学びのためにみなさん浄専寺に集まってこられます。
 
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「病から私が問われていること」
 
今回私は「病から私が問われていること」と題し、医療現場での様々な悩み、戸惑い、歎きを通して、自分自身のあり方を問い直すということを課題としてお話しさせていただきました。内容を少しだけですが整理しておきたいと思います。

医療現場で、医師と患者が「共に」生きるということを願いながら、その「共に」が成り立たない。「共に」を成り立たなくしている私はいったいどういう私か、そして「共に」はどこに成り立つのか。

「問い」の共有
 
そういうことに思いを巡らせたとき、そもそも「問い」を共有できていないということに気づかされます。わたしたちは常にある「立場」から問い、答えを求めます。医師として、患者として、父として、母として、息子として、学生として、私として、あなたとして・・・。「問われる」ということがなければどこまでも別の立場と「問い」が一致しません。ときに良かれと思って自分の立場からの問いと答えを押しつけ、相手を傷つけるということがあります。「問われる」というところから初めて「立場」を越えた「問い」を考えることができます。

しかし、その「立場」に私たちはしがみついています。これこそが私にとって意味あるものだ、私であるという何かをつかみたい。私たちは自分がしていること、自分の役割に「意味」を求めます。逆にその「意味」が崩れると、途端に生きられなくなります。

「共に」の心、分断の心
 
そのように、世の中のものを、「意味のあるもの」と「意味のないもの」にわけ、前者を求め、後者を避けたい。誰しもそう思っています。しかし、それこそが、「共に」が成り立たなくする原因ではないのでしょうか。

医療はマイナスをプラスにすることが当然の使命であるようにされてきました。そのすべてを否定するわけではありませんが、そこにひそむ問題に目を向けないといけません。「あなたにはわからない」という患者さんの言葉に打ちのめされ、そのことに気づかされました。
 
病を治せない、マイナスをプラスにできないとき、マイナスをプラスにしようするその考え方が分断を生むのです。安全なところからマイナスをプラスにできないことを悲しむ立場と、マイナスの中では生きられないことを悲しむ立場。私は私で悲しむ、あなたはあなたで悲しむ、そこに交わりがありません。
 
例えば、死に際して「死を受け入れて安らかに死ぬこと」と「死を受け入れられず嘆くこと」はどちらが「良い状態」でしょうか。前者であってほしいという外からの願いは、死に直面している自身になれば残酷でもあり、孤独を生むものでもあります。「受け入れられないから苦しいのだ」と。「誰にもこの苦しみはわかってもらない」と。マイナスをプラスにしようとする立場からは、どんな状態であってもそこを生きられる勇気は与えられません。マイナスはダメだというわけですから「どんな状態であっても」ではありません。

「共に」歩める場所とは
 
ほんとうに悲しむべきことは、マイナスをプラスにできないことではなく、マイナスをマイナスとしてしか捉えられない心なのではないか。マイナスをマイナスとしてしか捉えられない心が、私とあなたの世界を分断しているのではないか。
 
プラスマイナスを越えた価値に気づくことを大事にする場所、プラスであってもマイナスであってもそこを生きるいのちを尊べる世界、そこに初めて「共に」が成り立つのではないか。「やっとこの苦しみをわかってくれた」といって共に安心して苦しめる、生きられる勇気が与えられるのではないか。

医者も患者も、どんな立場であっても「ただ一人の人間」としてマイナスの前に立ち尽くす一人の人間として、プラスマイナスを越えた価値、いのちがほんとうに悲しみ、ほんとうに願うことに一緒に耳を傾ける。マイナスをマイナスとしか見られない自分を悲しみ、しかしそのことを通じてそれを越えた価値に触れる喜びがある。それは立場や境遇によらず触れることができることではないだろうか。もしも立場を越えて「共に」歩める場所があるとしたら、そういう場所なのではないか。
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そのようなことを、いろいろな実際の患者さんの言葉を通じて考えさせていただきました。当日は夜遅い時間にもかかわらず、たくさんの方に来ていただきました。たくさんご質問いただき、またそのあと残られた方々との座談も大変有意義でした。また浄専寺前住職様そして前坊守様、御住職には言葉で尽くせないほどお世話になりました。 この場をお借りして御礼申し上げます。