デリーからガヤへ
ガンディー・スムリティを後にした我々一行は、デリーの空港に向かった。空港に着くとガヤ行きの飛行機が1時間遅れであることがわかった。しかしこのぐらいで苛ついていてはインドではやっていけない。時間通りに行かないものだと初めから思っていたので、特に慌てることなくのんびりと昼食を食べながら待った。
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天候が良く、飛行機の中からは外の景色がよく見えた。今回は行けなかったベナレス(ヴァーラーナシー)の上空にさしかかった。ちょうど蛇行するガンジス川とベナレスの町を見ることができた。
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またガヤに近付くとあのネーランジャラー川(尼蓮禅河)が横たわっていた。
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そうこうするうちに、1時間半ほどでガヤ空港に到着。
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ここで我々と旅を共にする車とドライバーのバブルさんとの対面。バブルさんにはこれから長い長いドライブをお願いすることとなる。そして、無秩序で障害物だらけの過酷なインドの道路を走りこなす、バブルさんのドライブテクニックを目の当たりにすることになるのである。
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ブッダガヤ到着
いよいよブッダガヤの大菩提寺の前まで来た。中に入る前に、はやる心を抑えてチャイ休憩。とても汚いが、とても美味しい。このあともインドではこのギャップによく驚かされた。
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 入場には厳重なセキュリティーを通らなければならなかった。2013年にチベット人僧侶やビルマ人らが負傷する爆発事件が起こったからだろう。中に入るときには大分日も暮れていた。
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私は初めてだったのでわからないが、何度も来ている先生方によると、来るたびに派手になっているという。静かに礼拝できるところであってほしいのだが、残念ながらだいぶ観光地化してしまっている。

そうはいっても、世界中からあつまって仏陀に礼拝する人たちを目の当たりにすると、生きた信仰を感じる。
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我々一行も裸足になって中に入る。
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まず大塔の中に入ると、ちょうど御本尊のまえで大勢で勤行の最中であった。そのため写真は控えた。遠慮は要らないとのことだったので、我々もそこに混じっておつとめをした。異なる言語の勤行の声が混じり合うのもなかなか味わえない雰囲気であった。

降魔
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外に出ると、M先生に上を見るように言われた。そこには壁に彫られた仏陀像があった。よく見ると右手を地面につけている。これは「触地印」「降魔印」などと呼ばれる印相だという。降魔とは、成道の妨害を企てた魔(マーラmāra)を降伏させたという意味である。

若き日の仏陀、青年ゴータマは「老病死」が「人生の意味」を奪うことを悟り、立ち尽くす。しかし何ものにも奪われない真実があると信じ、再び前へと歩み出したのだった。それが出家である(→詳しくは、インド旅行記/6日目 ゴータマの故郷カピラヴァストゥ)。出家し沙門となったゴータマは、痩せ細るまで苦行続ける。しかし厳しい苦行で真実の道は開かれないとしてそれを止め、この地の菩提樹の元に座る。共に苦行した五人の比丘たちはゴータマは堕落したと思い、去って行く。

沙門ゴータマのところには、苦行中にも菩提樹の元にも「魔」がやって来る。

魔とはなんであろうか。「魔」という漢字はmāra(マーラ)というサンスクリット語を音写したものだといわれる。māraとは√mṛ(死ぬ)という動詞から派生した名詞であり、命を奪う者という意味である。しかし、文字通り命を奪うという意味に留まらず、それに心奪われ、真実に生きることを障げるものである。パーリ語経典『ダンマパダ』には以下のようにある。
46. pheṇūpamaṃ kāyamimaṃ viditvā, marīcidhammaṃ abhisambudhāno.
chetvāna mārassa papupphakāni, adassanaṃ maccurājassa gacche.
47. pupphāni heva pacinantaṃ, byāsattamanasaṃ naraṃ.
suttaṃ gāmaṃ mahoghova, maccu ādāya gacchati.
48. pupphāni heva pacinantaṃ, byāsattamanasaṃ naraṃ.
atittaññeva kāmesu, antako kurute vasaṃ.
 
46. 泡のようなこの身であると知り、幻の本性に現にまさしく目覚めた者は、悪魔(māraマーラ)の花の矢を断ちきり、死王に見られないところにいくだろう。
47. 花々を摘むことに熱中している人を、眠っている村を大きな暴流が〔連れ去って行くように〕、死王が連れ去っていく。
48. 花々を摘むことに熱中している人を、まだ欲が満たされていないにもかかわらず、死が支配する。(『ダンマパダ』dammapada, 46-48)
また、同じくパーリ語経典『スッタニパータ』には魔について八つの軍隊であるといい、「欲望」「嫌悪」「飢渇」「妄執」「無気力」「恐怖」「疑惑」「偽善、強情、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑すること」 を挙げる。

つまり我々の外側からおそってくるものではなく、内に潜むものである。我々を真に人間として生きる道を障げるものは内にある。その内に潜む魔を降伏させ、何ものにも流されないほんとうに生きられる道を見出したというのである。 

では魔を降伏させたものは何か。それは強い精神力によってねじ伏せたのではない。先ほど挙げた『スッタニパータ』の前には次のようにある。
427. Taṃ maṃ padhānapahitattaṃ nadiṃ nerañjaraṃ pati, 
Viparakkamma jhāyantaṃ yogakkhemassa pattiyā. 
428. Namucī karuṇaṃ vācaṃ bhāsamāno upāgamī, 
Kiso tvamasi dubbaṇṇo santi ko maraṇaṃ tava. 
429. Sahassabhāgo maraṇassa ekaṃso tava jīvitaṃ, 
Jīva ho1 jīvitaṃ seyyo jīvaṃ puññāni kāhasi. 
430. Carato va te brahmacariyaṃ aggihuttañca juhano, 
Pahūtaṃ cīyate puññaṃ kimpadhānena kāhasi. 
431. Duggo maggo padhānāya dukkaro durabhisambhavo, 
Imā gāthā bhaṇaṃ māro aṭṭhā buddhassa santike. 
432. Taṃ tathāvādīnaṃ māraṃ bhagavā etadabravī, 
Pamattabandhu pāpima yenatthena idhāgato. 
433. Aṇumattenapi puññena attho mayhaṃ na vijjati, 
Yesaṃ ca attho puññānaṃ te māro vattumarahati. 
434. Atthi saddhā tathā viriyaṃ paññā ca mama vijjati
Evaṃ maṃ pahitattamipi kiṃ jīva mama pucchasi. 
435. Nadīnampi sotāni ayaṃ vāto visosaye, 
Kiñca me pahitattassa lohitaṃ nūpasussaye.

ネーランジャラー河の近くで専心してつとめはげみ、平安を得ようと奮い立って静観している私に、悪魔ナムチは、やさしい言葉をかけて近づいた。
 
「あなたは痩せおとろえて顔色が悪い。あなたはいまにも死にそうだ。死が千ならあなたの命は一にすぎない。生きよ、生きていたほうがいい。命があってこそ福徳を積むことができるのだ。梵行を修して火の神に供物を捧げるものに、多くの福徳が積みあげられるのだ。つとめて何になろうか。つとめる道は、進むにかたく、作しがたく、達成しがたいものだ。」
 
この詩を唱えて悪魔は仏陀のそばにたった。
このように語ったその悪魔に、世尊はつぎのように語った。
 
「放逸の親族、悪魔よ、そのためにここにやってきたのか。私には福徳などいささかも意味がない。福徳に意味があると思うものたちに悪魔は語るがいい。私には、 信仰(saddhā)があり、勇気(viriya 精進)があり、智慧(paññā)がある。このように専心してつとめている私にどうして命のことを尋ねるのか。私の勇気からたち上がる風は、河の流れをも干上がらせるであろう。専心してつとめる私の身体の血がどうして干上がらないだろうか。」
(『スッタニパータ』Suttanipāta, 427-435, PTS 74-75(宮下晴輝訳))
もう生きられないと思っていた者に、生きる勇気、存在への勇気を与えるのが「信」である。逆に言えば我々の「信」が問われる。「信」とは何も特殊なことではない。家族や人間関係、職業や地位、経済、健康など「これに意味がある」と信じるからこそそれを支えとして生きられる。しかしそれは確かなものだろうか?我々が「これだ」と思って信じている「意義あること」は脆い。「老病死」を初めとする様々な苦悩によっていとも簡単に崩れる。この世のどんなものも支えにならなくなったとき、何が生きる勇気を与えるのか。
 
それは、確かに生きられる道、苦を越えられる智慧があると信じる心である。その心は、命を延ばしたり福徳を積んだりという私的な願い事を問題とせず、「河の流れを干上がらせ」「身体の血を干上がらせる」と表現されるほど、力強い存在への勇気を与える、と述べられている。苦悩の真っ直中にいる者にとって、その心はどこに成り立つのだろうかということをまた問わざるを得ないが、苦悩の中を進ませる勇気の表現の力強さには圧倒されるものがある。

そして菩提樹の元で沙門ゴータマは仏陀となった。仏陀(buddha)とは「目覚めた者」という意味である。目覚めたとはどういうことか?その地へと向かい、その意味を確かめる。

次回 インド旅行記/2日目(3) 成道の地ブッダガヤ—菩提樹の元で—