お参り先のご門徒さんのお宅で、また絵本を紹介していただきました。『ことろのばんば』(文:長谷川摂子、絵:川上越子)です。(残念ながら絶版のようです。)
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色づいた葉や風景の色使いが秋を思わせる美しいもので、お参りした時期にはぴったりでした。時が過ぎるのははやいもので、もう季節外れになってしまいました。
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内容は美しい絵とは対照的で、おそろしい「ことろのばんば」が子供たちをさらうお話です。ところが、この子供たちは、ことろのばんばにさらわれて壺に入れられているのですが、壺から出てきてみなで遊ぶのです。そしてそれをばんばが眺めています。そしてばんばの一声でまた壺に戻っていきます。ばんばの思うがままです。
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ちょうどこれを紹介して頂いたその日、実は朝からゲーテの『魔王』("Erlkönig")を大学で読んでいました。あのシューベルトの作曲で有名なあの魔王です。それもあってか、すぐに結びつけてしましました。

少年が父と馬で夜半を駆けてゆく。そこで魔王の誘いの声が聞こえます。

・・・ "Willst, feiner Knabe, du mit mir gehn?
Meine Töchter sollen dich warten schön;
Meine Töchter führen den nächtlichen Reihn,
Und wiegen und tanzen und singen dich ein.”・・・
魔王:「うつくしい少年よ、私といっしょにいかないか。
私の娘たちはよくきみをもてなすよ。
私の娘たちが夜の輪舞へ導く。
そしてきみを揺すり、踊り、うたい、眠りにいざなう。

父には見えない魔王が少年には見えます。そして家に着いた少年は死んでいました。

ドイツ文学の先生からこの「魔王」が何を指すかについての考察として、ゲーテが『自然ー断片(Die Natur - Fragment)』で類似の表現が見られることを紹介して頂きました。

Natur! Wir sind von ihr umgeben und umschlungen - unvermögend aus ihr herauszutreten, und unvermögend tiefer in sie hineinzukommen. Ungebeten und ungewarnt nimmt sie uns in den Kreislauf ihres Tanzes auf und treibt sich mit uns fort, bis wir ermüdet sind und ihrem Arme entfallen.・・・(Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 13, Hamburg 1948)

自然!私たちは彼女に取り囲まれ、抱かれており、彼女から出て行くこともできず、彼女の中へより深く入っていくこともできない。招待することなく、警告することなく、彼女は私たちを輪舞の中へと連れ去り、私たちを駆り立てる。私たちが疲れ果て、彼女の腕から滑り落ちるまで。


有限の私たちは、無限の自然に抱かれているのに、深く入っていくこともできない。真っ直中にいるのに何も知っていない。そしてその中で、疲れ果て、死ぬまで輪舞しているというのです。

ここまで読んで、悪い癖です。いろいろと思い出し、ふとパーリ仏典の『ダンマパダ』が出てきました。

46. pheṇūpamaṃ kāyamimaṃ viditvā, marīcidhammaṃ abhisambudhāno.
chetvāna mārassa papupphakāni, adassanaṃ maccurājassa gacche.

47. pupphāni heva pacinantaṃ, byāsattamanasaṃ naraṃ.
suttaṃ gāmaṃ mahoghova, maccu ādāya gacchati.

48. pupphāni heva pacinantaṃ, byāsattamanasaṃ naraṃ.
atittaññeva kāmesu, antako kurute vasaṃ.(dhammapada

46. 泡のようなこの身であると知り、幻の本性に現にまさしく目覚めた者は、悪魔の花の矢を断ちきり、死王に見られないところにいくだろう。

47. 花々を摘むことに熱中している人を、眠っている村を大きな暴流が〔連れ去って行くように〕、死王が連れ去っていく。

48. 花々を摘むことに熱中している人を、まだ欲が満たされていないにもかかわらず、死が支配する。


ことろのばんばのもとで遊ぶ子供たち、魔王のもとで輪舞する少年、死王のもとで花を摘むことに熱中する人。何かつがながるところがあるように思えます。


『魔王』の少年は死を迎えて詩は終わります。しかし、『ことろのばんば』は最後、ばんばのもとから子供は解放されます。そして『ダンマパダ』でも順は前後しますが、「
死王に見られないところにいく」とあります。


いったい私たちは、この生活の中で、人生の中で、何に熱中しているのでしょうか。それはほんとうに大切なことでしょうか。それはことろのばんばの壺の中なのでしょうか、外なのでしょうか。自由であるということはどういうことでしょうか。主体的であるとはどういうことでしょうか。そんなことを考えさせられる一日でした。絵本をこんな解釈をしてよいのかどうかわかりませんが。