先日のお参りでお聞きした、飼い猫のお話しをご紹介する。猫のお名前は個猫情報保護のため伏せておく。

猫といっても家族と同じ。その猫が脳腫瘍になったという。手術予定だった日の直前に急変し、緊急手術となった。手術は何時間にも渡りなんとか終了。しかし意識が戻らない。2週間たっても戻らない。もうだめだとあきらめていた頃に奇跡的に意識が戻ったという。それほどの経過だったので後遺症が心配だ。猫の飼い主は、リハビリをどうしたらいいかと獣医さんに聞いた。するとこう返事がかえってきたという。

「猫は勝手にリハビリをします。」

実際、家に帰ってすぐ、どんどん動き回り、みるみるうちに回復したというのである。その姿がとても力になったという。

人間はあれこれ考える。こんなことをして意味があるのだろうかとか、こんな後遺症が残っては生きていけないとか。リハビリに意味を求めたり、時に人生をあきらめたりする。

そもそもrehabilitateとは回復する、復帰するという意味である。私たち人間の場合、普通回復できなければ意味がないと考えるだろう。猫の場合、聞いてみないとわからないが、別に頑張ってリハビリをして、復帰して仕事に戻ろうとは思っていないだろう。人生、いや猫生に絶望することなく、文句をいうこともなく、いのちの残された力をただただ最大限に出し切り、与えられたいのちをそのままにいただき、全うしようとしているように見受けられる。

このお話しを聞いていて、以前リハビリ科を担当していた頃の、ある患者さんのことを思い出した。進行性の難病だった。リハビリをしてもよくなるわけではない。できるだけ維持することはできるかもしれないが、症状は進行する。仕事にも復帰できない。何もかも失ったといって投げやりになるのも無理はない。リハビリすることを拒否された。しかし、ある時を境にリハビリを始められたのである。一度は前に進めなくなったその方が、再び前に一歩踏み出せたのはなぜなのか。そして歩み続けられたのはなぜなのか。

それはなぜかという問いは大事なものであろう。しかし、さらに大事なことは、一歩前に踏み出し、歩み続けたという事実がそこにあったということである。苦難の道であっても、その足で確かに新しい足跡を残された。その事実に力を与えられる。力というものは、きっと理屈よりも事実から与えられる。

古い仏説を残すと言われるパーリ語経典『スッタニパータ』の一節を思い出す。ネーランジャラー河の近くで平安を得ようと奮い立ち静観している若き日の釈尊(お釈迦さま)である沙門ゴータマに、悪魔が誘惑する。その時ゴータマはこのように言った。
 
「私には、信仰(saddhā)があり、勇気(viriya 精進)があり、智慧(paññā)がある。このように専心してつとめている私にどうして命のことを尋ねるのか。私の勇気からたち上がる風は、河の流れをも干上がらせるであろう。専心してつとめる私の身体の血がどうして干上がらないだろうか。」(スッタニパータSuttanipāta, 425-435, PTS 74-75、宮下晴輝訳)

苦悩の中を信仰と勇気と智慧で力強く進んだゴータマ。果たして孤独の中に希望はあるのか。絶望の先に未来はあるのか。いまだ仏陀ではないゴータマには疑惑が残る。しかし苦悩の中であっても力強さがある。そんなゴータマはどのような心で、どんな道を求め、歩んだのだろうか。その事実を確かめていきたい。猫のようにいのちをそのままにいただき、力強く生きることが難しい私たち人間は、そんな人間だからこそ、自分自身のいのちから願われていることに耳を傾ける機会が与えられているのだから。
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(注:文章中に登場する猫ではありません。)