友人の結婚式に出席するため、先日新潟に行ってきた。出発前からやや体調が悪かったのだが、ちょうど肝腎の披露宴の日に風邪症状がピークに達し、ゆっくり皆と飲み明かそうと思っていたがダウンしてしまった。しかし早く寝たのが良かったのか、翌日には幾分改善していた。せっかく遠くまで来たのだからと、少し無理を押してお目当ての地を目指した。直江津である。
長岡から信越本線に乗り約一時間半のところに直江津駅はある。そこからのんびりと三十分ほど歩き、居多ヶ浜(こたがはま)という浜を見下ろす丘にたどりついた。風が強く、この季節でも肌寒く感じられた。きれいに整備されており、色鮮やかな芝桜の桃色が荒波の日本海と対照的であった。その横には「親鸞聖人上陸の地」と書かれた木製の看板と石碑が建てられてあった。この浜は浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が専修念仏禁止により流罪となり、そのときに上陸したと伝えられている地である。
八百年前の当時、流人は「人日に米一升塩一勺、来年の春に到りて種子を量給す」(『延喜式』)とあるように、最初の一年に米と塩は支給されるが、翌年からは与えらた籾種で自給自足をしなければならなかった。しかもこの頃は飢饉や洪水が人々の生活を苦しめていた。生きることに必死で、そのためにはどんなことでもしなければならない現実。比叡山を下り、法然上人に出遇ったことにより念仏の生活が始まったが、その京都でしてきたことを越後のきびしい生活の中で確かめられた。比叡山での生活が人間というものに偽りの殻を重ねる日々であったとすれば、それと対照的に越後のきびしい生活の底ではこれまで積み重ねてきた殻をすべて剥がされる。それはきびしい病床での生活とも重なる。その先にある「むき出しの人間」が何を求めるのか—。そのような課題を抱えた人間の奥底から湧き出た、いわば「いのちの叫び」としての念仏であったからこそ、越後の民衆が共感し、そして感応道交したのではないか。今も様々な場所に親鸞聖人の像が立ち伝説が残るのは、そのように仏教や念仏を机上で語らず、生活に根付いたリアリティがあったからこそなのだろう。